協会代表理事・佐野正行氏が手がけた地方市役所での取り組みは、導入から5年目を迎えた今も続いており、研修を受けた方の75%が「受けてよかった」と回答しています。
健康経営を実現する鍵は、心・身体・人間関係の3つを同時に整えることにあると語るのは、元外科医の佐野正行氏です。
「頑張っているのに職場の雰囲気が良くならない」「部下との関係に悩んでいる」といった職場の課題は、この「心・身体・人間関係」のどこかが崩れているサインだと言います。
手術という医療の最前線から、人が病気になる前の健康を支える仕事へ。佐野氏がたどり着いた「幸せ・健康・豊か」という考え方と、健康経営の土台となる「心・身体・人間関係を整える」その実践方法を伺いました。
外科医から「幸せ・健康・豊か」の世界へ

ウエルネスマネジメント協会 協会代表理事 佐野 正行氏
佐野氏がウエルネスマネジメント協会の活動を始めた原点は、消化器外科医として「人が病気になってから」始まる医療の限界に気づいたことにあります。
——まず、先生のこれまでのご経歴と、活動を始められた背景を教えてください。
佐野先生:僕はもともと消化器外科医で、食道がんや肝臓がんの手術を専門とするグループにいました。転機になったのは、ある問いに気づいたことです。
医者の仕事というのは、突き詰めると「人が病気になってから」始まる仕事です。
別の言い方をすれば、人が病気という不幸に見舞われてから、僕たちの出番がやってくる。もちろんそれは大切な仕事です。
ただ僕は、その前の段階、人が幸せに、健康に、豊かに生きること自体をサポートする仕事も、医療の延長線上に作りたいと思うようになりました。それが2011年、独立の理由です。
——「幸せ・健康・豊か」という言葉には、どんな想いが込められているのでしょうか。
佐野先生:人が病気になる原因を長年見てきて気づいたことがあります。
働きすぎて不健康になっている人、人間関係やハラスメントで不幸せな時間を過ごしている人、あるいは自分らしく生きられずに苦しんでいる人。その反対をやればいいんです。
不健康ではなく健康に、不幸せではなく幸せに、モヤモヤするのではなく豊かに。
この3つを整えられれば、誰もが自分らしく笑って生きられるはずだと思い、「幸せ・健康・豊か」という言葉にたどり着きました。今は、この考え方を企業向けの研修として届ける活動を続けています。
健康経営の土台となる「心・身体・人間関係」3つの軸
佐野氏が説く「幸せ・健康・豊か」とは、心・身体・人間関係という3つの軸を整えることで実現される状態を指します。健康経営の実践においては、「心・身体・人間関係を整えること」こそが具体的な取り組みの中身になると言います。

心:感謝や自分らしさとのつながりを大切にし、前向きに働く
身体:食事・睡眠・休息のリズムを整え、健康を維持する
人間関係:周囲との関係性を築き、協力し合える環境をつくる
——「幸せ・健康・豊か」を実践するとは、具体的にどういうことでしょうか。
佐野先生:よく聞かれるのは、「繁忙期でも幸せで健康で豊かに働けるんですか」という質問です。
答えは、ある週や月だけを切り取って見れば、身体を害することはある、です。
でも、それ以外の時間できちんと整えればいい。月〜金曜日が忙しいなら、土日で整えればいいのです。
わかりやすい例を挙げると、僕は先日、大好きな仲間2人と浴びるほどお酒を飲みました。
その時間は幸せで豊かな時間ですが、健康は確実に害しています。だから僕は、その日飲むとわかっていれば、前後の食生活を整えることで全体のバランスを取るようにしています。
「幸せ・健康・豊か」のバランスは、人それぞれ違っていい。大切なのは、自分らしい形でこの3つを整えることです。
——こうした考え方は、「ウェルビーイング* 」という言葉とも重なりますね。
佐野先生:そうなんです。ウェルビーイングは、最近トレンドのように語られますが、僕はずっと「幸せ・健康・豊か」という言葉でこれを伝えてきました。
僕が外科医だったからこそ、この視点にたどり着けたと思っています。
外科医の仕事は手術だけではありません。がんの告知を受けた患者さんの心のケアもすれば、手術前後は身体全体の状態も診なければならない。
しかも1人では手術できず、麻酔科医や看護師とのチームワークが不可欠です。
つまり僕は外科医として働く中で、心・身体・人間関係のすべてに向き合うことを、仕事のレベルで実践してきました。
それがそのまま、今の活動の土台になっています。社員一人ひとりが心・身体・人間関係を整えながら働けること、それこそが僕の考える本当の意味での健康経営です。
健康経営「ウエルネスマネジメント」によって現場で起きる変化とは

「ウエルネスマネジメント」健康経営による変化は経営者・幹部の意識が変わることから始まり、早ければ半年ほどで組織全体に波及します。
——実際に企業や行政でウエルネスマネジメントの研修等を行う中で、難しさを感じる部分はありますか。
佐野先生:大きく2つあります。1つは、経営者にとって「売上を上げること」がわかりやすいゴールである一方、心や人間関係を整えることがどう売上につながるのか、イメージしにくいということ。
心身の健康と「健康経営」を結びつけることは多いですが、人間関係が良好になれば、営業など仕事もうまく進みやすくなり、結果として売上にもつながります。
心と身体の健康だけでなく、人間関係も良好にする。それが本当の意味での「健康経営」だと思います。
もう1つは、これは今日やったから明日変わる、というものではないということです。最低でも半年、できれば1年、3年という長いスパンで見てもらえると、必ず結果が出ます。
——印象に残っている変化のエピソードがあれば教えてください。
佐野先生:九州地方の市役所へ研修に伺ったときの話です。行政組織には、従来の価値観や慣習が残っている側面もあります。
ある幹部の方に「部下に感謝の気持ちを伝えていますか」と質問すると、「教えてあげているのに、なぜこちらが感謝を言わなくてはいけないのか」と。確かに、そういう考え方もあるでしょう。
でも、相手も自分のために時間を取ってくれている。だから、「ありがとう」を伝えてみてはどうでしょうと話したところ、その方は「なるほど」と納得し、さっそく行動に移してくれました。
それから数ヶ月後、その方の部下だった女性職員2人が、「初めて『ありがとう』と言われて、本当に嬉しかった」と、話してくださいました。「怖い人だと思っていたけれど、話してみるとすごくいい人だった」とも。
そうして市役所の職員の方々の心が変化し、役所の対応も良くなって、市民の方々からも嬉しいコメントが増えたと聞いて本当によかったと思いました。
研修はたった2回でしたが、幸福度を測る調査(ウェルビーイングサークルという、72項目の質問で幸福度の変化を可視化する調査。10万人以上のデータを扱う専門機関が実施)でも、半年でほぼ全ての項目の数値が上がりました。
また、研修を受けた方の75%が「受けてよかった」と感じています。
現在、この取り組みは5年目を迎え、部署を変えながら続いています。
見過ごされがちな「脳疲労」という視点

目に見えない「脳の疲労」に気づかず、ケアを怠ることで、うつなどの症状が進行することがあります。
——佐野先生は産業医としての活動も行われていますが、最近の職場では、働く人のメンタル面にどのような変化を感じていますか。
佐野先生:うつや、その一歩手前の状態でメンタルクリニックに通う方は、確実に増えています。ただ、これは「なるべくしてなっている」面もあると思っています。
キーワードは「脳疲労」(筋肉が使いすぎで疲労するのと同じように、脳も使いすぎることで働きが落ちてしまう状態)です。たくさん歩けば筋肉が疲れて足がつるように、脳も使いすぎれば不調のサインを出します。
それでも無理を続けると、頭が働かなくなる。これが典型的なうつの状態です。
- 眠れなくなる
- 過食になる
- 気持ちが不安定になる
他にもありますが、こうしたサインは、脳が「これ以上は危険だ」と発している防御反応です。見えないものだからこそ、多くの人が見過ごしてしまいがちです。
——脳が疲れる要因として、今の時代ならではのものはありますか。
佐野先生:今は江戸時代の人が1年かけて得ていたとされる情報量を、僕たちは1日で得ていると言われるほど、情報量が爆発的に増えています。
それに加えて、僕がもう1つ注目しているのが、スマホをちょこちょこ見るという行為そのものです。
あれは、脳の中で「今やっていたこと」から「スマホの情報」へ、絶えず意識を切り替えている状態です。切り替えるたびに、脳は毎回スタートダッシュを繰り返しているようなもの。1回1回は小さな負荷でも、1日に何百回も繰り返せば、相当な疲労になります。
情報量が多いことに加えて、こうした「細切れの切り替え」が、脳をさらに疲れさせている。歩き疲れたらマッサージやお風呂を考えるのに、脳の疲れには多くの方が無頓着です。
うつに至る前のサインを知っておくだけでも、早めに対処しやすくなります。
自分らしく生きるために大切なこと「佐野先生からのメッセージ」
佐野氏が最も伝えたいのは、「心・身体・人間関係の整え方」こそ、誰もが本来最初に学ぶべきことだということです。——最後に、部下のマネジメントに悩む方や、なんとなく疲れを感じている方にメッセージをお願いします。
佐野先生:もし僕が生まれ変わって、最初に何を学ぶか選べるとしたら、国語や算数ではなく「心・身体・人間関係の整え方」を選びます。
心と身体を整える方法がわかっていれば健康に生きられますし、人間関係が良ければ、必要な情報や助けも自然と集まってくる。でも、心・身体・人間関係の整え方を真剣に学んでいる人は、ほとんどいません。多くの人が、なんとなく周りを真似しながらやり過ごし、ズレが積み重なって、病気になったり、仕事ができなくなったりしてしまうんです。
僕自身、15年ほど前は、人付き合いを大切にするあまり、夜に2軒はしごしてフルコースを2度食べるような無茶をしていました。今は、そうした「幸せな時間」を楽しみつつ、その後にきちんと整えることで、当時よりもずっと健康になったと感じています。
実は最近、僕自身にも「子どもを授かる」という大きな変化がありました。まだ言葉もわからない我が子に、それでも愛情を持って言葉をかけ続けると、ちゃんと反応が返ってくる。
子どもとの経験を通じて、「幸せ・健康・豊か」ということを、より深く、より広い視点で皆さんに伝えられるようになったと感じています。
僕が本当に願っているのは、会議室でも、現場でも、家に帰ってからも、「自分は自分らしく生きている」と胸を張れる人を、日本中にもっと増やすことです。仕事は、本来、人に幸せを届けるからこそ対価をいただける、とても「いいこと」のはずです。
だからこそ、仕事に携わる人自身が、疲れきった顔ではなく、笑って働ける世界をつくりたい。それが、外科医からこの道に転じてから、僕がずっと変わらず持ち続けている願いです。
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